文芸
人間が生きるために不可欠な食。食うために生きるなどと私の最も身近にいる男性は放言していますが、食はもっと真面目に考えなければならないものであることも間違いありませんね。
では、文芸作品の中ではどのように表されているのでしょう? 古今東西の作品を気の向くままに取り上げ、私の浅薄な読書歴をたどりながら、綴っていきたいと思います。
私は立教大学文学部で萩原朔太郎をはるか昔に学んだ一介の主婦です。湘南地域のほどよく気の合う女性5人で、ほどほど熱心に読書会を続けています。ケーキなどお茶菓子を持ち寄って。
「食と文学」は文学者にとって永遠のテーマといえる奥深さがあるはずです。本を読むことが楽しいだけの人間がそこをどれだけ捉えられるか。まことに重すぎるテーマですが、文芸という大きな枠の中で、年齢を忘れ、大テーマに挑んでみます。拙文ご寛容のうえお付き合い下さい。
齋木正子
文芸作品に見る食 1
東京・池袋の立教大学の校内にある古い第一学生食堂の入り口の上に、次の彫刻が施してあります。
APPETITVS RATIONI OBEDIENT
ラテン語で、「食欲は理性に従うべし」という古代ローマの哲学者キケロ(BC106~43)の言葉です。大学が食堂を造ったとき学生に暴飲暴食を慎むようにというメッセージだったのでしょう。時折その言葉を見上げていた私にとっては、警告を守れなかったという悔恨の思いで終生忘れられないものになっています。
キケロは雄弁士でありました。ギリシアのソクラテス(BC470~399)から始まってギリシア・ローマ時代の哲学者たちは弁論術を必須の学問として修めていたようですから、キケロもこの言葉を、大衆の前で諄諄と説いていたことが想像できますね。
いまから2000年以上も前のことです。うーん、とうなってしまいます。あの時代に、と感心もさせられるし、いまも人の食欲って昔と同じなんだなあ、と安心もさせられます。
豊かな社会が出現していたローマ時代(奴隷制度の時代ですが)、一般大衆の食事情はきっと恵まれた状態にあったのでしょう。そして人々はさまざまな快楽を求めていて、食べることへも貪欲な関心を向けていたに違いありません。
キケロは、そうした快楽を戒めたのです。キケロは多くの著書や論文の中で、人間にとって知性や理性より卓越したものは何もなく、快楽こそ最大の敵、と言っています。キケロの著作そのものはまだ読んでいませんが、キケロ関連の本でそれは明らかです。
2000年以上も前に、一人の哲学者が食欲と理性について述べた言葉に、私はやはり驚かされます。真理を突いていますね。江戸時代に『養生訓』で「腹八分」を説いた貝原益軒(1630~1714)のことも思い出されます。それから300年も経って、私はいまだに食欲に勝てていません。
※キケロの言葉は、英語に直訳するとappetites rational obedient となります。
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